モノの数え方

何度も何度も考えるけど、やっぱり分からないことがある。

私には、自ら命を絶つひとの気持ちが分からない。

 

人は何のために生きるのかって難しい問題だけど、

何かを成し遂げるためだったり、

誰かに寄り添うためだったり、

欲を満たすことで得られる余韻を楽しんだり、

つまりはそういうことのような気がする。

 

嬉しいこともあれば、そうじゃないこともあるのが人生で、

現代の日本の平均的なサラリーマン家庭に生まれて、

自身もまたサラリーマンとして生きてきた私は、

たぶんいいことも悪いことも平均的だったのかな。

 

自分が平均かどうかなんて、どうでもいいことだし、

周りと見比べるとあまり同じ境遇の人は見当たらないですけどね、

でも突飛でもないとは思う。

 

ひとつだけ、全く周りで聞いたことのないことは、母の病気。

あの時は、そんな聞いたことのない病気に母がなったことが、信じられなかったし、衝撃だった。

母が失うもの、私たちが失うもののことを考えて悩んだ。

 

でもそれまで全然バラバラで、お互いに関わることの少なかった私たち家族は一致団結したし、

母は命を取り留めたし、そして思ったんです。

失ったモノより、今持っているモノを数えようと。

 

その時見ていた映画だかドラマだかで、

阿部サダヲさんが叫んだセリフにもあった。

失ったモノばかり数えるなと。

そう思うとエンタメってほんと偉大。

 

自殺される方々は何かを失ったのだと思う。

もしくは、何かが手に入らなかった。

 

それはきっと周囲との比較がある。

あの人はこれがあるのに、みんなあれがあるのに、

自分にはない。

 

そんな風に考え出すと、私なんてないものだらけで、泣きたくなってしまう(笑)

でもさ。と、私は考えるんです。

でも、私はこれを持ってる。あれももらった。

そんな人は滅多にいないぞ?私すごくない?と。

 

ほんとは比較なんてしないのが美しいんだろうけど、

なかなかそうもできないのが人間のエゴ。

でもって、ネガティブ思考の無限ループにハマることもある。

 

そんなときはやっぱり嗜好品に助けてもらう。

はたまた誰かの愛情に癒してもらったり。

自分以外の何かの力はすごく大事。

 

余談だけど、その時の嗜好品に薬を求める人がいても、それは見逃してあげたいなと思ってしまったりもする。

もちろん、それにより反社会勢力にお金が流れるのはよくないけれど、それは非合法だからそうなるわけであって、

じゃ合法にしちゃえばいいんじゃないの?

もちろん利用により犯罪が増える可能性もあるわけだけど、それは罪の厳罰化だったり、

依存症を救済するシステムがもっとメジャーになれば、違う意味で救える人が増えるような気がする。

 

話を元に戻します。

 

ここ数ヶ月考えた結果、

命を絶つ人は、モノの数え方が間違ってるんじゃないかという結論に達したのでした。

そしてまた、周りを見縊っているんではないかと。

 

それでも鬱病ならどうしようもないじゃないか、

鬱病はウイルスで発症するんだぞと。

そういう考え方もある。

 

でも全てのウイルスに対し、闘う免疫力を私たちは持って生まれている。

そしてまた、闘うための武器として、医学だったり、

笑いや愛情や喜びは、必ずどこかにある。

 

闘え。