小林麻央さん

小林麻央さんがご存命の頃、ブログ読者でした。

 

3日ぐらい前から、急に気になり始めて、

またブログを読み返してみたりしていました。

 

昨日は仕事で嫌なことがあって、泣きたい気分で、

家へ帰って、ずいぶん前に録画した海老蔵さんのドキュメンタリー番組をビール片手にぼんやり眺めていて、ふと気が付いた。

そうか。命日だ。

 

一時期は海老蔵さんのブログも見ていたし、

麻央さんが亡くなったときは涙したような記憶もあるけれど、

正直なところ、日常に紛れて遠い過去の記憶になっていた。

 

最近のわたしはテレビも見ないので、なぜ命日のこの日に麻央さんを思い出したのか理由は分からないけれど、

そういうこともあるんだなぁ。

 

でも。不思議だなぁ。

 

会社を辞めるということで、

少しセンチメンタルになっているのかもしれません。

 

会社を辞めることは、給料が途絶えるだけでなく、

それまであった自分の椅子をなくすことでもあるし、

日々考えるともなく当たり前だったやるべきことを失うことでもある。

 

それってつまり、縛られていたものから解放されることで、

わたし自身が望んでいたこと、今もなお切望していることであるのだけれど、

気持ちは振り子のように揺れる。

人間てのはめんどくさいものですね。

 

そのことと、小林麻央さんが何の関係があるのか…

苦しみから解放されたいと願うことと、苦しみを乗り越え打ち勝ちたいとと願うこととの違いみたいなようなもの?

 

いやいや

 

わたしなんかの気の迷いと、彼女の辛さは比べようもないけれど。

 

当時もそう思ったんでした。

 

ブログが始まった頃、母がガンで入院していて、

わたしはお見舞いに通うだけだったけれど、

大嫌いな病院に日々通うことはなかなかにしんどくて。

 

そんなときに思ったのでした。

この人に比べたら、わたしなんて…と。

 

不思議。

あの時の気持ちを思い出すためだったんだろうか。

 

でもあのときとは少し違うわたしは、もう1つ思う。

 

誰かと比べることには何の意味もないし、

わけわからず悲しみが押し寄せた昨日のあの気持ちは、

不安をすり替えたものだったのではないか?と。

 

不安。お金に対する不安ではなく、

指示されるべき存在を失うことによる不安。

 

幼稚園から小学校、中学校、高校と、

人は親に学校に、あれやれこれやれ言われながら育つのですよね。

 

大学は少し違ったけれど、それでもやるべきことはあったし、先輩やバイト先からの、あれやれこれやれがあった。

 

社会に出れば、会社からの指示があって…

 

ひとり暮らしの無職って、それが全くなくなる。

いや、それを望んでいたはずなのだけれど。

 

人間てのは弱いものだなぁ。