パワハラってなんだ。
社会人だけに関わらず、社会的に問題になってますね。
いじめとかパワハラとか。
傍観者も加害者なのだのすれば、大なり小なり関わった経験のない人はいないと思う。
わたしにも経験があります。
仕事って、やることさえやっていれば、その合間で息抜きするのは自由だと思っていました。
例えば、勤務時間中にスマホを見たり、ネットサーフィンするなんてとんでもない!って考え方の人もいるけど、
仕事の内容にもよるんだろうけど、別にきちんと仕事をこなしてれば問題ないんじゃない?と思う。
でもその代わり、やるべきことはやらなくちゃいけない。
がんばったかどうかは関係ない。がんばって褒められるのは部活動の話。
仕事は結果がすべて。
それから引き受けた以上責任を持て。という意識もあって。
愛想よくハイハイと仕事を受けて、納期間際になって、すみません、納期延ばしてくださいという人もいるんだけど、
それはあり得ないと思う。子どものお使いじゃあるまいし。と。
そしてミスということ。
誰にだってミスはある。人間だもの。
だから初めてのミスはいいと思う。大事なのはミスを繰り返さないことだ。
ミスしたら
1回目:あれ?どこで間違えた?
2回目:やべっ。前回との共通点は…
3回目:チーン…切腹…
ま、切腹は冗談にしても、同じミスを3度繰り返したら、しかも短期間だったなら、その人は自分を振り返るべきだ。
だって、そこまで行ったらもはや他人にはどうすることもできない。
その人自身の人生というか、人となりの問題だと思う。
仕事って、勤務時間中に机に向かってる時だけが仕事じゃない。
後で振り返って考えたり反省したり、今後について予測シミュレーションしたり、それも立派な仕事。
だから、勤務時間中だからうんぬん。て話はくだらないと思う(仕事内容によりますが)。
そういうスタンスでわたしは仕事に臨み、自分の下についた子にもそういう話をしていたんだけれど、
それに対して厳し過ぎると言われることが何度かあった。
厳しいですか?だってお金もらうんだよ?
結果を出す。納期を守る、もしくはアラートを早めに出す。同じミスを繰り返さない。
当たり前のことじゃないだろうか。
パワハラは良くないよね。
威圧的に接すると立場の弱い人間は萎縮してしまって本領発揮できなくなるから、効率的に考えてもよくない。
ただ、ゆとりだかさとりだか知らないけれど、若い子の顔色を伺って、後始末を全部付けておいてやるような、
そんなやり方も良くないと思う。
お給料をもらう以上は新入社員だってプロなのだ。
年次と給料に比例させた、業務責任は負うべきだ。
それを厳しいと思うのならば、アルバイトで働けばいいんじゃないかと思う。
職場方針にもよるだろうけど、アルバイトさんには上記三原則は当てはまらないんじゃないかしら。
でも一方で思うのは、
部下だけじゃなく、同僚と話していても厳しいね〜と言われることが多かったのだけれど、
たぶん、その厳しさは自分に課していたものだったのかもしれないと。
そのくらいの厳しさを持って向き合わないと、とてもここまでやってくることはできなかった。
それはたぶんプレッシャーであり、ストレスであったのだ。
厳しいスタンスで仕事に向き合う人は、きっとみんな、自分を基準に置いているのだと思う。
かく言うわたしも、わたしごとき学校の成績も良くなく、目立つ方でもなく、取り立てて特技があるわけでもなく、
わたしごときにできることは、誰だってちょっとがんばればできるだろうと思ってる。
ちょっとがんばってスキルを上げてしまえば、あとは緩やかな上り坂なんだから、最低限出来るようちょっとだけがんばりなよ。と。
だけど、冷えとりを進めていくに従って、下の子に注意することがしみじみ堪えるようになってきた。
叱ることがしんどい。注意もしんどい。
だけれど、ミスはなくならない。中に1人ひどい子がいて、
3回どころか百回ぐらい繰り返してるんじゃなかろか。てな子がいる。
もうぐったりする。なんなら全部わたしがやるから消えてくれとさえ思った。
そして、ふと思った。
これまで何度か厳しいと言われたスタンスは、わたしが自分自身に課したものでもあったけれど、
わたしの心の余裕のなさから産まれた息苦しさでもあったわけだ。
きっと、パワハラやいじめの加害者は、たぶん別の場所では被害者で、
その心の澱を消すために、別の場所で加害者になる。
もしくは背徳的な行動に出る。万引きとか、不倫とか、脱法ハーブとか?分かんないけど。
とにかく何かを傷付けずにはいられない衝動に駆られるんだと思う。
テレビが、有名人の過失を嬉々として持ち上げるのもきっとおんなじ。あの行為は加害者はもちろん、被害者をも傷付ける。
そして、紙一重の行動をしているのにも関わらず、ネットやなんかで批判を繰り返す不特定多数の人も。
なんだこの負のスパイラル。
わたしにできるのは、せめてもそこに参加しないことだ。
そして思う。
傷付けられて産まれた心の澱を、傷付けることで消そうとしても、
何かを傷付けたとき、それは消えるのではなく違う澱に変わるだけだ。
誰にも見付からずにそれができたと思っていたとしても、自分は知っている。自分がしたことを。
傷付けられることは避けられない。
相手に悪意がなくったって、こちらが勝手に傷付いてしまうことはある。
そのときすべきことは、同じことを繰り返さないために、対策を練り、実行することだと思っていた。
でもそれは、自分の中にどんどんルールが増えていって、息苦しくなるだけだった。
だから違うのかもしれない。
一番いいのは、シンプルだけど、忘れることかもしれない。
ホ・オポノポノを知って、たまに試すようになって、ふとそんな風に思ったのでした。