点子ちゃんとアントン

読書好きな母のおかげで、児童文学と呼ばれるものには、小学生時代に一通り接したように思う。

がしかし、当時のわたしには意味が分からなかった、

(文章は読めるし、ところどころ面白いとは思うものの、読み終わって何も感じなかった)

本がいくつかある。

 

モモもそうだし

モモ - いきたいようにいきる

点子ちゃんとアントンもその1つ。

ついでに言えば、はてしない物語も、アンシリーズも、ドリトル先生も、トムソーヤもハックルベリーフィンも、宝島も海底二万マイルも、星の王子様も、飛ぶ教室も、森は生きているも、不思議の国のアリスも、よく分からなかった。

きっと探せばもっとあると思うけど。

 

で、読んでみた、点子ちゃんとアントン

 

深い話なのね〜!

ネグレクト母、仕事人間の父、貧富の差、貧困母子家庭、ガン、結婚詐欺、結婚を焦るアラサー独女、と、現代とおんなじ問題点が目白押しだ。

 

当時のわたしに理解できなかったのは無理ないかもしれない。

想像力の欠如と言われればその通りだけど、あまりに文化が違いすぎるもんな。

 

お父さんは朝から晩まで働き、家にいるときはずっと寝ている(何しろ団塊の世代だ)。

お母さんはパートで働くか家にいるか、どちらにしても夜は家にいる。

それ以外の家庭を見たことがなかったし、知っている大人は親世代と学校の先生だけ。

怒る大人はいたけれど、本物の悪意なんて見たことはなかった。

 

ところどころ挟まれる、作者ケストナーの反省文。

これがまたこの本を遠ざけた要因の1つだと思う。

 

真理を突いている、非常に無垢な魂。

大人になった今はそう思うけど、当時にしてみれば説教臭くて、学校みたいで、鬱陶しいだけだったろうと思う。

難しい言葉が多いし、なんの話なのかよく分かんないし。

 

でも大人になってしまったわたしは、しみじみ感じ入ってしまった。

 

なまけもののくせに他人の不幸を喜び、腹黒い欲張りで、金を欲しがり、嘘つきであったら、そいつは卑劣漢だ。

 

子どもの頃読んだら、

そんなのあたりまえ。そんな大人にはならないし、わたしの周りにそんな人はいない。

そう思ったと思う。

 

でも今読むと、

うーむ、あたし、当てはまるかも…

てか当てはまらない人っているかなぁ、こんな人ばっかりだなぁ…

と思う。

誇張された表現だから、そうではないと言えばそうではないんだけど。

 

お上に逆らったって仕方ない。

とは、昔勤めていた会社の専務の口癖だったけど、

そういう風潮があるよね、日本人には。

 

もちろんわたし自身にもあるんだけど、そこに疑問を感じることもまた確か。

でも点子ちゃんとアントンは違ったし、

点子ちゃんのパパもまた違った。

 

作者のケストナーが人気者だったという戦時下のドイツ。

当時の日本だったらまた違っただろう。

国民性の違い。発言しない日本人。

 

ふと思い出した。学生時代にそう思っていたことを。